今日の距離は短めの181km。それ以上距離を伸ばすとしばらく街がなさそうだからだ。
モーテルを出るとすぐにオハイオ州で、今日のゴールは州都のコロンバス。かなり大きな街だ。今日はなんとオハイオに住んでるN氏が応援に来てくれることになった。彼とはゴールで会う予定である。
ところで昨日の晩、州境の手前で泊まったのには実は理由があったのであるが、いったいそのワケとは?!
モーテルを出て、1kmほど走るとそこはもうオハイオ州だった。そこはハイウェイのジャンクションになっていて道は入り組んでいたが、道路と道路の間の芝生に州境の看板を見つけた。そして僕は呟いた。
ま、まさかのダジャレ!昨日州境の手前で泊まったのは、まさか、まさかこんなことを言うためなのか?!
M女史も返事をした。まさかのダジャレにニンマリしながら、二人とも頭は壊れ気味である。アメリカ横断もいよいよクライマックスをむかえつつあった。
いつも通り夜明けのコーヒーブレーク
40号線はコロンバスに向けて一直線であったが、公園のような場所を通り抜ける時だけ、少しクネクっと曲がっていた。
朝8時ごろ、僕らはその公園を走っていた。長い橋のような物を渡ったその先の高台でブランコが揺れていた。ブランコには老夫婦が座っていた。きっとその老夫婦にとって、そこはいつもの散歩のコースで、ブランコは特等席なんだろうな?そんなことを考えるとなんだかほのぼのした気分になった。
ちょうどお昼でお腹がすいたころ、僕らは小さな街を走っていた。ここを逃すとしばらく何もなさそうなので、僕らはレストランを見つけて中に入った。しかしそのレストランを選んだのは失敗だったのである。というのも、注文した料理が一向に出てこないのである。他にもふた組ほど客がいたが、その人達もまだかまだかと料理を待っているのであった。余りにも待たされるのでシェフはいないんじゃないかと思えるほどだった。
M女史はあまりの遅さに切れ気味であった。呼んでみても水しか持って来ないウェイターが、更にその怒りに拍車をかけた。確かにこれだけ時間があればずいぶん前へ進めただろうに、もどかしくてしかたなかった。
もうすぐ1時間になろうとしていたころやっとM女史の料理が出てきた。しかし僕の牛はまだ出てこない。遅い料理を頼んだ僕に彼女の怒りはMAXになった。しかも食べ終えて外に出るとポツポツと雨が振り出したのである。
そんなわけで、これからしばらく僕らは昼間はガスステーション以外たちよらないことになったのである。
まだなんとか雨は本降りにはなっていなかった。僕らはまっすぐな40号線をひた走っていた。すると道路の先で人が立っているのが見えた。近づくとその人は走っている僕たちをカメラで撮ろうとしていた。ついに、僕らのアメリカ横断も風の噂で有名になり、沿道でファンから写真を撮られるぐらいになったのだ。
そんなわけはなかった。その人物は今日応援に来ると言っていたN氏だった。N氏には走る道も時間も告げていたわけではないが、コロンバスへ向かうならこの道だろうとあたりをつけて待っていてくれたようであった。
彼と初めて出会ったのは、2007年のPBPのスタート地点だった。僕らは早くスタートしようとかなり前の方に並んでいたのだが、その時同じような所に並んでいたのが彼だった。走っている間も抜いたり抜かれたりで、同じような所を走っていた。
2008年、ロッキーマウンテン1200kmでも彼と再会し、共に完走したのであった。
思いがけず出会えたことで、僕らは一気に盛り上がった。出会えた記念に記念撮影をした。
彼はポンプも持っていたので、久々にハンドポンプ以外で空気をいれた。少し走りが軽くなったし、何よりちょっと元気になった。ゴールのコロンバスまではあと少し。再びゴールで会うことを約束し僕らは走り始めた。
コロンバスはかなり大きな街で、今まで通ってきた大きな街と同様にビルがいっぱい立ち並んでいるのが見えた。しかし、空を見るとかなり黒い雲が立ちこめていて、街に近づくにつれ雨足が強くなってくるのであった。コロンバスの街に差し掛かったころには、雨は滝のような勢いで打ちつけ、道は川のようになっていた。
その時である。僕の自転車の後輪がパンクした。またしても空気を入れた直後であった。
僕らは降りしきる雨の中、近くのガードの下でパンク修理をした。その間も雨はやむどころか激しくなる一方であった。
再び走りだした僕たちを襲ったのは滝のような雨だけではなかった。コロンバスは州都だけあってかなりの車の量だった。雨のせいで僕らのこともまともに見えていないのではないだろうかという恐怖に僕らは必死だった。特にM女史は後ろから迫ってくる車が来るたびに、あの事故のことを思い出し怖くてしかたなかった。
街の中心街。立派なビルが立ち並び、壁には鮮やかな電光掲示板。雨が降っていなければ止まって写真を撮りたいポイントであったが、僕らはとにかく走るのに必死だった。
そうして午後5時過ぎ、僕らはゴールのモーテルへと駆け込んだのだった。
モーテルではN氏が先回りして待ちかまえていた。そして僕らがモーテルについた途端に今まで降っていた雨が嘘のようにピタリと止んだの であった。N氏の話だと、この辺ではスコールのようにどさっと雨が降って、ピタッと止むことがよくあるらしい。だから雨宿りは割と有効な手段なのだとか。 しかし、僕らには雨宿りなんて選択肢はなかった。今までだって散々雨の中は走ってきたのだ。
気温は高かったのでカッパ無しで走った方が気持ちよかったのだが、僕らは完全に濡れ鼠だった。モーテルの部屋に入るとすぐにシャワーを浴びた。
シャ ワーを浴びて洗濯をした後、応援に来てくれたN氏と晩ご飯を食べに行くことになった。行き先は僕らが久しく食べてない日本食レストランである。しかしその 前にさっき大雨で通過を余儀なくされた、コロンバスの中心街へ立ち寄ってもらうことにした。どうしてもそこで写真を撮りたかったのだ。
中心街に着くと雲間に青空が見えていた。その青空に向かって尖塔のようなビルがそびえ立っていた。ビルの壁には電光掲示板、今までの街には無かったものだ。アメリカは東へ行くほど都会度が増して行くようで、いよいよニューヨークに近づいているのだと感じることができた。
ひとしきり写真をとったあと、僕らはレストランへと向かった。そこは、日本の食材屋さんも併設されていて、いろいろ懐かしい物が売っていた。レストランではM女史とN氏はカレーライス、僕はラーメンを注文した。他にもうどん、そばはもちろんのこと、鰻丼などがありかなり魅力的だった。
ご飯を食べながら、三人でPBPやロッキーの時のこととか、アメリカのブルベはどんなだとか色々話をした。
そして僕らが今まで通ってきたところがアップダウンがいっぱいだったという話になると、この辺りではあんなものは平地だとN氏は言った。ケンタッキー州に行けばそれがよくわかるぐらい山だらけということらしいが、僕らが次に向かうのはありがたいことにペンシルベニア州だった。
ところがペンシルベニアがありがたいなんてのはとんでもない話だった。
どうやら僕らがこれから向かう場所はかなりの山岳地帯のようだった。残りの距離はあと少しなのに、僕らが抱えていた漠然とした不安は、このことを指し示していたのかもしれない。
ご飯を食べ終わり、僕らはモーテルまで送ってもらった。たくさん話をしたので少し遅くなってしまったが、こうしてオハイオまで走り、同じ自転車乗りの知人に会えたことはほんとに良かった。N氏は他にもチェーンオイルとかチューブを僕らのために置いていってくれた。
明日もまだ僕らはオハイオ州を走る。しばらくは平らな大地が続くようだが、それもいつまでだろうか?
寛平ちゃんもペンシルバニアがきつかったってコメントしてたよね。ルートはここまで来たら変更できないだろうから、知らないほうが幸せかなと思って・・・。
そう!なんdeath。Eところに気がつきましたね。学校でここら辺りの地理を学習した時、そう『滝線都市』って名前は?
つまり、アメリカの産業発展に重要な役割を果たした東部諸都市の工業用水供給源、そいつがアパラチア山脈であり、その中心部がペンシルバニア州に絡んでたんですねえ。
あっしもある程度の予備知識は仕込んで走りました。がっ!!!ここまでとは・・・!!。
ってなことを考えて走ってたんとちゃう??
ムハハハハ!!おつかれ3。
nemotoさん、AKIOさん
、
あの激坂は神戸なみやわ。
走りながら笑いがでたわ。