僕は自転車をおじさんの車の荷台に乗せた。自転車屋さんへは後で病院からタクシーで向かうように言われた。
それから、事故の証明書などをもった。この後かかる費用は向こうの保険でなんとかしてくれると思う。そして僕も救急車に乗り込んだのであった。
救急車の中に入ると、M女史は身動きが取れないぐらい担架にぐるぐる巻きになっていた。まるで大重病人のように見えたが、担架に固定されているのにはわけがあった。
一緒に乗っていたレスキューのお兄さんはM女史の腕に注射をすると言っている。何が起こるのかわからないM女史に通訳したところ、どうやらM女史は注射が嫌いなようであった。
しかし、暴れることはままならなかった。万事休すってのはこんな状態を言うんだと思いながら、僕はその様子を見ていた。レスキューのお兄さんは彼女の言うことはわからないが、僕がOKというと容赦なく注射を刺した。
注射は一本ではなかった。何やら両腕に針の付いた物体を刺されるM女史。それはおそらく血液で個人を識別する為のもので診察が終わるまで外せないのであった。M女史は「痛いい」「早く取ってー」と言って暴れたそうだったがやはり動くことはできなかった。まるで駄々っ子にお灸を据えてるみたいであった。
しかしアメリカに来て救急車に乗るとは思っても見なかった。救急車からは後ろの窓からの景色しか見えなかった。ただでさえ土地勘がないのに、いったいどこを走っているのかまるでわからなかった。
ほどなく走ると救急車は病院に到着した。M女史は担架ごと救急車から降ろされたかと思うと、いっぱい集まってきた看護士達の手により1、2、3と言う掛け声で病院の担架に乗せかえられた。さながらアメリカの救急ドラマを生で見ているようであった。そしてM女史はそのまま病院内の手術室へと運ばれたのであるが、僕は外で待っているように言われたのだった。
手術室は修羅場のようであったが、その声が外にいる僕まで聞こえて来ることはなかった。
しかし、先生や看護士達もなかなか手を焼いたようで、ほどなくして手術室のドアが開いた。
そう言って僕は中に呼ばれた。中に入ると僕はごついエプロンのような物を装着させられた。それは他のスタッフが身に付けている物と同じ物だった。目の前の患者が手に負えず、先生は僕にバトンタッチをしようというのだろうか?そんなはずはなかった。どうやら僕は通訳兼なだめ役として呼ばれたようである。
中ではM女史は涙目になっていた。それもそのはず、来ていたジャージを取るのにハサミで切られていたのであった。自転車乗りにとってジャージは大切なものである。しかもそれは彼女が特に大事にしていた正屋のジャージだったのだ。さすがに看護士達もすまなそうな感じであった。
とりあえずなだめたりしながら、医師達の言うことを通訳したりした。通訳とはいっても、込み入った言い回しや、医学用語なんかはさっぱりわからなかった。しかしここでも彼らはiPhoneを取り出したかと思うと、それを使って翻訳を試みるのであった。
翻訳結果・・・・「痛い?」
さすがに、それは翻訳しなくてもわかるわ!とツッコミを入れたくなったが、そう思いながらもM女史に伝えた。
そして、どのあたりが痛いとか痛くないとか予備健診を行なった後、いよいよレントゲンを撮る部屋に移動した。
移動した先にあるのはCTスキャンの装置だった。てっきりX線写真を撮る物とばかり思っていたが、アメリカではこっちが主流なのだろうか?M女史は日本でもCTには入った事はなく初めての様子だった。
CTルームに行くと、更に人が増えた。研修医らしき人が4〜5名後ろの方で様子を見ていた。僕もその横に一緒に並んで医者の卵のフリをしていたが、半ズボンのレーパン姿でエプロンを付けた研修医なんかいるはずなかった。
突然、「そんなことにいないでこっちへ来い」と呼ばれた。いったい何かと思えば、通訳してほしいらしかった。
まず「動くな。」それから「少し暖かくなるかもしれない。」最後に「すぐ終わるからリラックスして。」
以上、正しいCTスキャンの入り方であった。
そうして、CTが終わると元の部屋へと戻った。検査にしばらく時間がかかるようである。その間、M女史は栄養剤を点滴してもらうことになった。ということは再び腕に針を刺すわけであり、M女史は「痛いぃ」と暴れそうになったが、看護婦さんの手際は良くてあっという間に腕に針を刺したのであった。M女史は痛そうにしていたが、その代わり一人だけ栄養満点になりつつあった。明日から一人元気になるかもしれない・・・。
その時世話をしてくれた看護婦さんはなかなか美人だった。ちょっと入院したくなるかもと思った。
検査の結果はまだしばらくかかるらしく、僕らは別室へと移された。それは僕らにとってちょうどいい時間だった。寝不足気味の僕らはそこで一時間余り眠ることにした。何かしらの力が働き僕らに少し休めと言っているような気がした。
11時過ぎぐらいまで僕らは居眠りをしていた。ずいぶん時間が経過した気がするが、その間特に誰かが来るというわけでもなく、いったいいつになったら検査の結果がでるのか全くわからない状態だった。
部屋の前はカーテンで覆われているだけで、その向こうは救命棟の事務室のようだった。他にも同じような部屋がいっぱいあり、そのいくつかには患者がいるようだった。僕らは周りの様子がわかるようにカーテンをあけてみた。
僕はキョロキョロとあたりを見回したが、
なんとなく、あまりキョロキョロしてはいけない空気になってしまった。
仕方なくおとなしくしていると、一人看護婦さんがやってきた。しかし大丈夫かどうかだけ聞くと何処かに行ってしまった。
数分後、廊下の向こうについに院長クラスのオーラをまとった先生が現れた。二人とも「よーし!こっち来い」とばかりに気合を入れるが、その院長はさっきの婦長さんと話をするだけしてどこかへ行ってしまった。
状況はなかなか変わらなかった。先生達はお昼でも食べに行ってしまったのだろうか?そう思えるぐらい誰も近くを通ることは無かった。
さらに時間は過ぎ、やっとさっきの院長のような先生が部屋までやってきた。
実際にはかなりの痛みがあったようだが、M女史は早くここを出たい一心で大丈夫と答えたのであった。
M女史がそこまで痛みを我慢しているとは思ってもみなかったので、僕は完全に先生の診断の方を信じてしまった。
ついに、帰っていいんですね。二人ともそう思ったのであるが、
まだ検査は終わりではなかった。M女史の腕にはいまだ例の針が刺さったままであった。もう外してと訴えるM女史であったが、それもまだ外すわけには行かないようであった。M女史の試練はもう少しだけ続くのであった・・。
先生の言っていた、病院の食事とやらが運ばれて来たのはちょうど12時過ぎだった。食事を持ってきたのは病院のスタッフというよりは監獄の看守みたいなお兄さんで、ふてぶてしく無言でトレイを差し出すのであった。それを受け取るとやはりそいつは無言で立ち去っていった。
さて、M女史が吐かずに食べなくてはならない食事であるが、まずはフルーツ盛り合わせ。これは普通である。そしてハムサンド。アメリカの病院だからパンもまあ普通。そして、袋入りのポテチ。こんなん病院で出すんかい!!最後に炭酸飲料。そうそう、これゲップ出さずに飲んだら検査終了ってなんでやねんっ!
ツッコミどころ満載の食事であったが、気が付けば僕たちは夜明け前から何も食べていなかった。ちょうど良かったので、僕も半分もらって食べることにした。ポテチは今は食べずもって帰ることにした。
食べ終わってしばらくすると、あのふてぶてしいお兄さんは再び無言で空のトレイを持ち去っていった。
しばらくすると、看護婦さんとさっきの院長のような先生が帰ってきた。最後にもう一度大丈夫か確認してついにやっと僕らは解放されることとなった。両腕に刺さった針もやっと抜いてもらえてM女史もホッとしたようだった。
僕らは先生達にお礼を言った。先生達も僕らのこの先の道中の安全を祈ってくれた。